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最高裁判所第三小法廷 平成10年(行ツ)65号 判決

大阪市淀川区野中南二丁目一一番四八号

上告人

日本ピラー工業株式会社

右代表者代表取締役

岩波清久

右訴訟代理人弁護士

深井潔

同 弁理士

鈴江孝一

鈴江正二

東京都千代田区霞が関三丁目四番三号

被上告人

特許庁長官 伊佐山建志

右当事者間の東京高等裁判所平成五年(行ケ)第一九九号審決取消請求事件について、同裁判所が平成九年一〇月二九日に言い渡した判決に対し、上告人から上告があった。よって、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人深井潔、同鈴江孝一、同鈴江正二の上告理由について

所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は独自の見解に立って原判決を論難するものにすぎず、採用することができない。

よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 尾崎行信 裁判官 園部逸夫 裁判官 千種秀夫 裁判官 元原利文 裁判官 金谷利廣)

(平成一〇年(行ツ)第六五号 上告人 日本ピラー工業株式会社)

上告代理人深井潔、同鈴江孝一、同鈴江正二の上告理由

一 原判決は、特許法第二九条第一項第三号の規定の適用において判決に影響を及ぼすこと明らかな法令の違背があるから、破毀されるべきである。

(一) まず、本願発明の要旨は次のとおりである。

すなわち、本願発明は、「高密度炭化珪素焼結体製摺動部材であって、その摺動端面所要部分に潤滑用の溝を形成したことを特徴とするハイドロダイナミックシール用高密度炭化珪素焼結体製摺動部材」である。

これに対して、本願発明が記載されているとされた引用例(甲第三号証の一五七頁ないし一五八頁)の内容は次のとおりである。

すなわち、「3・4・6 ドライガスシール」の項において、「液体潤滑剤を用いないでガスの漏れをきびしく制限するメカニカルシールは、今日でもむずかしいシールの1つである。密封端面に適当なみぞを設け、相当量の漏れを許し、ハイドロダイナミックシールの原理を応用して寿命の長いシールを得ることは可能である。端面材にはカーボンと金属(ステライト、タングステンカーバイドなど)を用いるものがある。・・・端面設計を図2。10のようにすることにより非接触形にもできる。非接触形にすれば漏れは多いが安定性はよく、寿命も長くできる。 上記以外で期待できる端面材とその組合わせとしては、種々のSiC×SiC、SiC×WCがある。SiC系×SiC系は低PV値(10kgf/cm2・m/s前後)ではよい成績を示す」という内容である。

ここで、被上告人(特許庁)の拒絶審決では、右内容に、ハイドロダイナミックシールの原理を応用するメカニカルシールの一対の端面材について、その両方とも炭化珪素(SiC×SiC)を素材とする材料で構成されていることが示されているから、この一対の内の一方にはハイドロダイナミックシール用の溝が形成された炭化珪素(SiC)が示されており、しかも、この炭化珪素(SiC)は高密度炭化珪素焼結体であって、その高密度炭化珪素焼結体にハイドロダイナミックシール用の溝を形成することは、例えばレーザ加工で可能である旨の判断がなされた。

この拒絶審決に対して、原審(東京高裁)では、次の(1)ないし(5)の判断のもとに、本願発明のハイドロダイナミックシール用高密度炭化珪素焼結体製摺動部材は引用例記載の「SiC」に記載されていると判決した。

(二) 原判決

(1) 引用例を含む引用文献(乙第一七号証)において、

『技術的に限定されないSiCは、セラミック単体を意味しているものと認められるとともに、シール用のSiCとして、SiCの緻密質の単体品と、カーボンの表面に反応層を造ってSiCとしたもの、すなわちSiC反応焼結品と、カーボンにSiCの蒸着層をコーティングしたもの、すなわちSiC蒸着品とが区別されているものと認められる』(判決書二八頁七ないし一三行)。

『SiC蒸着品及びSiC反応焼結品は、カーボンの表層をSiC化したものであって「SiC」自体とは区別され、母材であるカーボンの1形態として認識されており、カーボンの相手材としての「SiC」も、SiC蒸着品及びSiC反応焼結品と区別されているものと認められる。すなわち、審決引用の引用例中の「端面材にはカーボンと金属(ステライト、タングステンカーバイドなど)を用いるものがある。・・・上記以外で期待できる端面材とその組合せとしては、種々のSiC×SiC、SiC×WCがある。」(審決書3頁3~10行)との記載における「カーボン」は、SiC蒸着品及びSiC反応焼結品を含むものとして用いられており、「SiC×SiC」の「SiC」は、緻密質のセラミック単体を指すものとして用いられているものと理解されるのである。上記「SiC」にはSiC蒸着品及びSiC反応焼結品が含まれるとする原告の主張は、採用できない。』(同書三〇頁三ないし一九行)。

『その他、引用例を含む引用文献は、前示のとおり、「セラミック単体」と「セラミックコーティング」、「SiC」と「カーボン」、「SiCの緻密質の単体品」と「SiC反応焼結品」と「SiC蒸着品」などを、いずれの箇所においても明確に区別して使用しており、引用例の上記記載箇所と引用文献の全般的な記載とを別異に解する根拠は認められないから、原告の上記主張も採用できない。』(同書三一頁一二ないし一九行)。

(2) 「引用例発明の炭化珪素の緻密質の単体からなる端面材は、本願発明と同様の高密度焼結体であると認められ(る。)」(同書三四頁一七ないし一九行)。

(3) 『以上の各公報によれば、高密度炭化珪素焼結体に対して、レーザ加工、ダイヤモンド研削、ショットブラスト加工法により、数十μmの深さであるハイドロダイナミックシール用溝を作成することは可能であると認められ、また、表面粗さをサブミクロンの平滑度をもって形成できることも明らかである。』(同書三七頁六ないし一一行)。

(4) 『本願発明の実験例2において引用例発明よりも高いPV値でも好成績が得られるからといって、このことが、引用例発明と本願発明の摺動部材の材質の態様の相違(高密度焼結体であるか否か)を示すものではないことは明らかである。』(同書三八頁一九行ないし三九頁三行)。

(5) 『引用文献においては、前示のとおり、常圧焼結法と並んで加圧焼結(ホットプレス)法も示されており、他方、本願発明は、本願明細書(甲第二号証)によっても、加圧焼結(ホットプレス)法により高密度焼結体を形成したものとは認められないから、引用例発明の炭化珪素焼結体は、少なくとも本願発明と同程度の高密度のものと認めるのが相当である。』(同書四〇頁一ないし七行)。

以上の判断のもとに、原判決では、本願発明のハイドロダイナミックシール用高密度炭化珪素焼結体製摺動部材は、引用例に記載されたハイドロダイナミックシールの「SiC」と実質上差異がなく、つまり同一であり、その引用例に記載されているとして、特許法第二九条第一項第三号の規定の適用を維持したものである。

(三) 原判決が特許法第二九条第一項第三号の規定に違背している点

特許法第二九条第一項第三号の規定(以下、刊行物記載の規定という。)は、特許出願された発明が、特許出願前に日本国内または外国において頒布された刊行物に記載されているときに、その特許出願された発明は特許を受けることができないという規定である。つまり、この刊行物記載の規定は、その刊行物自体(本件の場合は引用例自体)に、特許出願された発明と同一の発明が記載されていることが必要となる規定なのである。したがって、この刊行物記載の規定を適用するうえにおいては、その引用例(刊行物)に記載された内容に基づいて、その引用例に現実に特許出願された発明と同一の発明が記載されているかどうかを判断すべきものであり、その引用例に記載された内容の範囲を越えて判断すべきものではない。また、その引用例に記載された内容からだけでは判断できない場合は、その引用例の頒布当時の技術水準を参酌して、引用例に記載された内容の範囲を特定することは適切な判断手法といえるが、その場合にも、その引用例の頒布当時には未公表で、その頒布当時の技術水準であるか判らない頒布後の記載内容(技術水準)まで引用例の内容に取り込んで、引用例に記載されていると判断すべきものではない。この刊行物記載の規定は、その刊行物(引用例)の頒布当時の技術水準をもとにして、その刊行物(引用例)自体に当業者が特別の思考を要することなく、当該発明が理解できる程度に記載されているかどうかを問題とする規定だからである。

原判決は、この刊行物記載の規定を適用するうえにおいて根幹をなす右(1)と(3)の判断が明らかに引用例に記載された内容の範囲を越えて判断しており、この刊行物記載の規定に違背しているものであるから、この原判決は破毀されるべきものである。

〈1〉 まず、右(1)の判断が刊行物記載の規定に違背していることについて述べる。

右(1)の判断では、引用文献(乙第一七号証)において、『技術的に限定されないSiCはセラミック単体を意味しているとともに、シール用のSiCとして、SiCの緻密質の単体品と、SiC反応焼結品及びSiC蒸着品とは区別されている。SiC蒸着品及びSiC反応焼結品は、カーボンの1形態として認識されている。すなわち、引用例中の「端面材にはカーボンと金属(ステライト、タングステンカーバイドなど)を用いるものがある。・・・上記以外で期待できる端面材とその組合せとしては、種々のSiC×SiC、SiC×WCがある。」との記載における「カーボン」は、SiC蒸着品及びSiC反応焼結品を含むものとして用いられており、「SiC×SiC」の「SiC」は、緻密質のセラミック単体を指すものとして用いられている』としている。

しかしながら、引用例に記載された「端面材にはカーボンと金属(ステライト、タングステンカーバイドなど)を用いるものがある。」との「カーボン」は、端面材がカーボンであることを記載しているものであって、この引用例に記載された「カーボン」が、SiC蒸着品及びSiC反応焼結品を含む意味として用いられているものではない。この文を記載した末尾には「22)」という数字が付されている(甲第三号証の一五七頁参照)。この数字が付された同頁の下欄には「S.Elonka,Power,100,3(1956-3),128)」という文献名が記載されている。この文献を参酌すれば、写真及び図入りで、次のとおり説明されている(別紙資料一参照)。

すなわち、「ドライガスシールには溝のある炭素黒鉛面があり、いかなる種類の潤滑(装置)も必要ない。シールガスは、研磨剤でひどく汚され、軸速度は速く、また運転温度も高い。これは、非常に珍しいメカニカルシールである。炭素黒鉛製の一方の固定リングには溝があり、軸に締め付けられる回転カラーに対して密封する。カラー(シーリングリング)は、ASI440ステンレススチール、鋳型スチール、ステライトまたは平たい硬質クロミウム板または炭化カルシウム面(カーバイト面)である。」と説明されている。

この説明ならびに別紙資料一に示される写真及び図から明らかなとおり、引用例に記載された「カーボン」は、端面材が炭素黒鉛面とされたカーボンであって、その炭素黒鉛面に溝が形成されているものなのである。

しかるに、原判決は、端面材がカーボンであるという引用例の記載に基づかず、引用文献に記載された「カーボン」から無理やり概念を広げて、引用例に記載された「カーボン」はSiC蒸着品及びSiC反応焼結品を含む意味として解釈し、したがって、引用例に記載された「上記以外(カーボン以外)で期待できる端面材とその組合せとして(の)SiC」は、引用文献に記載されたシール用のSiCのうち(乙第一七号証の一二八頁一〇行ないし一二九頁二行)、SiC蒸着品及びSiC反応焼結品は含まず、緻密質のセラミック単体のみを指すものとして解釈したものである。したがって、この解釈判断は、明らかに不当であって、引用例の記載に基づかず、引用例に記載された範囲を越えて解釈判断したものであるから、刊行物記載の規定に違背していることは明白なのである。

この引用例においては、SiC(炭化珪素)について、その記載内容をみれば明らかなとおり、「上記以外で期待できる端面材とその組合せ」とあるように、この記述も端面材に関する記述であって、その端面材がSiCと記載しているにすぎず、それ以上のことは何も記載してないのであり、ましてやハイドロダイナミックシール用の溝を形成する「SiC」が高密度焼結体よりなる摺動部材であるということまで認識をもって記載されているものではないのである。また、引用文献においても、結局のところ、ハイドロダイナミックシールに関する記述は、SiC蒸着品、SiC反応焼結品、あるいはカーボンの表層をSiC化したものしか開示されておらず、ハイドロダイナミックシール用の溝を形成する「SiC」が高密度焼結体よりなる摺動部材であるとは、どこにも記載されてないのであり、その認識もないのである。さらには、この引用例及び引用文献の頒布当時においては、詳細は後述するが、高密度焼結体製の摺動部材の摺動端面所要部分に、ハイドロダイナミックシール用の溝を形成できる技術水準にもなっていなかったものであるから、この引用例及び引用文献に記載されているにずもないのである。

このように、引用例には、本願発明のようなハイドロダイナミックシール用高密度炭化珪素焼結体製摺動部材まで記載されているものではないから、右(1)の判断は明らかに刊行物記載の規定に違背しているものと言わなければならない。

〈2〉 次に、右(3)の判断が刊行物記載の規定に違背していることについて述べる。

前述したとおり、刊行物記載の規定は、その刊行物に、特許出願された発明と同一の発明が記載されているときに適用される規定である。したがって、高密度炭化珪素焼結体の端面所要部分に、ハイドロダイナミックシール用の溝が作成可能な技術水準にあったとの観点から、本願発明が引用例に記載されているというためには、当然、その引用例の頒布時までに、その技術水準になっていなければならない。また、この引用例の頒布当時に本願発明が作成可能であったかどうかの判断をする場合は、引用例の頒布当時に本願発明に相当するものが作成可能な技術水準にあったとの明示がない限り、引用例の頒布以前の公報等で行わなければならない。技術は日進月歩であり、同じ加工名称でも改良がなされていくからである。したがって、引用例の頒布後の公報等である限りは、たとえその公報等に従来技術と記載されていても、引用例の頒布当時において本願発明に相当するものが作成可能な技術水準にあるとの明示がない限り、引用例の頒布当時の技術水準として判断すべきものではない。

右(3)の判断は、まさに引用例の頒布当時に本願発明に相当するものが作成可能な技術水準にあったとの明示がない引用例の頒布後の文献や公報等をもとにして、本願発明のハイドロダイナミックシール用高密度炭化珪素焼結体製摺動部材は引用例の頒布当時に作成可能であったと判断しているものである。

すなわち、右(3)の判断の根拠とした文献や公報等は、周知文献(甲第四号証、乙第四号証)が昭和58年3月30日に発行、日刊工業新聞社発行の「ハイテクノロジーセラミックス」工業材料臨時増刊(乙第一四号証)が昭和58年11月1日に国会図書館に入館、特開昭六一-一五五二七九号(乙第一五号証)が昭和61年7月14日に公開、特開昭六一-九九七二一号(乙第一六号証)が昭和61年5月17日に公開されたものであって、いずれの場合も、引用例(甲第三号証)の頒布時期(昭和57年12月25日)よりも後に配布(又は発行)されて公表された文献や公報等である。しかも、これら文献や公報等には、どこにも引用例の頒布当時において、本願発明のような超硬質の高密度炭化珪素焼結体の摺動端面所要部分に、広幅でかつ超浅い溝からなる特殊形状のハイドロダイナミックシール用溝を超精密に形成することが可能であったとは記載されてないのである。それにも拘らず、右(3)の判断では、引用例の頒布後の文献や公報等をもって、本願発明のハイドロダイナミックシール用高密度炭化珪素焼結体製摺動部材は引用例の頒布当時において作成可能であったと判断しているのである。

このように、右(3)の判断は、作成可能な技術水準の観点から刊行物記載の規定を適用するうえにおいて、時期的にも内容的にも明らかに誤った解釈で、本願発明が引用例の頒布当時において作成可能であり、本願発明は引用例に記載されていると判断しているものであるから、この判断も、刊行物記載の規定に違背していることは明白なのである。

なお、右(3)の判断においては、レーザ加工で本願発明のハイドロダイナミックシール用高密度炭化珪素焼結体製摺動部材が作成可能であるとの判断を示しているが、甲第九号証で立証していたようにSiC材料そのものの端面に、レーザ加工で、ハイドロダイナミックシールの溝のような広幅でかつ超浅い溝からなる特殊な形状(微細パターンの選択エッチング)を超精密に形成することは、この甲第九号証が発行される一九八九年(平成元年)までは皆無なのであり、本願発明を実施することは不可能であったのである。このことについて何らの理由も示さない原判決は、判断遺脱があると言わなければならない。

また右(3)の判断においては、切断、研削等の各種機械加工で本願発明のハイドロダイナミックシール用高密度炭化珪素焼結体製摺動部材が作成可能であるとの判断を示しているが、切断は例えばある寸法に切り落としてしまう技術であり、研削は表面や角などを研磨して削り取り、その表面や角などを平滑にする技術であり、その他の加工技術も、本願発明を形成する技術と比べて、つまり、高密度炭化珪素焼結体の摺動端面所要部分に、広幅でかつ超浅い溝からなる特殊形状のハイドロダイナミックシール用の溝を超精密に形成しなければならない超難解技術と比べて、はるかに低水準で済む加工技術であり、この低水準の簡単な加工技術をもって、本願発明のハイドロダイナミックシール用高密度炭化珪素焼結体製摺動部材が作成できるというのは、あまりに現実から懸け離れていると言わなければならない。

また、右(3)の判断においては、本願発明の出願当時に未公開のショットブラスト加工法で本願発明のハイドロダイナミックシール用高密度炭化珪素焼結体製摺動部材が作成可能であるとの判断を示しているが、このショットブラスト加工法を記載した乙第一六号証の出願以前(昭和59年10月20日)においては、ショットブラスト加工法でハイドロダイナミックシール用高密度炭化珪素焼結体製摺動部材が作成可能であるとの報告例や証拠が全くないのである。

二 以上のとおり、原判決は、刊行物記載の規定を適用するうえにおいて根幹をなす右(1)と(3)の判断が、実際には引用例に記載されていないにも拘らず、不当かつ違法な判断で、引用例に記載されていると判断しているものであるから、これらの判断は、明らかに刊行物記載の規定に違背しているものであり、この原判決は破毀されるべきものである。

以上

(添付書類省略)

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